テニストピア HP・ブログ発進2011/02/22 00:15

遅ればせながらホームページとブログを開設しました。
閲覧歴は長いのに、出遅れてしまいました。
新グレシャムの法則 ”日常業務は革新業務を駆逐する” は
私にとっては ”閲覧は公開を駆逐する” でした。
すこしづつ、始めていこうと思います。

【歴史1 1969年】中学・・テニスとの出会い2011/02/24 09:14

テニスとの出会い。それは高石中学校テニス部です。従ってテニストピア生みの親はその顧問安井先生です。けれどもコート1面を軟式と共用のため、創部二年目の硬式がコートを使えるのは週二日。一人週約10分でした。先生も朝練や校庭に張った防球ネットに向けての一本打ちなど、あれこれ工夫して下さいました。

それでも、もっと打ちたい私は祖父の畑の一角に壁打ち場を作ることを願い出ました。それは叔父の増田清次邸の塀を拝借する案でしたが、家族も叔父も快諾してくれました。畑の倉庫は整地の道具やトンボ自作の材料の宝庫でそれは数週間で完成しました。しかし塀が低く、腕が更に低く、一日何度家にボールを打ち込んだことでしょう。改めてこの場を借りてお詫び申し上げます。また隣の川にも打ち込み、土手の上り下りは筋トレになりました。一時間いても10分も打ててなかったと思います。

そこで休憩タイムに、当時一つ(?)しか売ってなかった教本を眺めながら、『将来ここから有名になったりしてっ!』とニヤッとほくそ笑んでいました。

【歴史2 1972年】高校・・鬼監督との出会い2011/02/25 09:15

小学時代から学業がクラス一二番だった私は、進学校の清風南海高校に進みました。テニスは趣味で続ける目的で迷わず入部しました。それが思惑外!雨の初日に退部を考えました。休みだろうと思っていたら、雨の日の恒例だという7階の階段室まで40往復のランニングの歓待を受けたからです。

鬼の富岡先生の練習は予感をはるかに超えていました。夏には自転車のハンドルにもたれ掛かって帰宅し、1時間は食事も出来ずにソファーに倒れ込みました。そんな姿を見かねた両親は何度も退部を促しました。しかし先生の休んだ日が天国に思えるほど嫌いだった先生なのに、その訓話をとにかく信じた私は、先生と同じ言葉で両親に反論していました。・・・『苦しいからと、つまづいたからと、途中でテニス部を辞めるような人間は、社会に出てからも人生の落伍者になる!』

学年トップ10の成績で入学した学力は見る見る下がり、三年生の春には最下位近くに落ちました。しかし私はもう一つの先生の訓話を信じました。・・・『お前らにはテニスを通じて身につけた根性と体力がある。勉強も夜中三時までやれっ!』本当に夜中三時まで勉強し、半年でトップ50にカムバックしました。

学業最優先の高校でしたが、私は富岡先生に出会わずに順調にトップに居続けたかも知れない高校時代より、一度底まで落ちて這い上がった高校時代を誇りに思います。辞めていたら今の私は無かったし、私の教え子達の戦績も無かったと思うと感慨深いです。

清風南海時代の出会いは決して鬼だけではありません。
当の富岡先生の思い出にも、実家で釣り船に乗せて頂いた、今でも鮮明な楽しいシーンがあります。
後に仲人を引き受けて頂くことになる、今は亡き長谷川先生にもよく試合をして頂きました。
当時の副校長で今の校長の平岡正巳先生にも、直々に試合をして頂きました。

【歴史3 1975年】大学・・女神との出会い2011/02/27 21:45

大学受験は、安全圏に落として自信のあった1期校は落ち、安全圏に落とし過ぎた2期校は合格したものの行く気を無くしました。不合格の自信のあった1.5期校は、観光がてら合格発表を見届けに行った両親から吉報がもたらされました。

その京都府立大学は、受験前日、四人の級友で泊まった旅館で夜中二時までトランプに興じたくらいの、実質倍率16倍の高嶺の花でした。しかし試験会場に向かうバスの中で何気なく眺めていた難問集の図形問題がそのまま試験に出たのです。あの20点は効きました。人生は、時に女神の一瞬の微笑みで大きく変わるものだと知りました。

迷わず入ったテニス部は、今度は楽園でした。週休2日制で、初心者の女子が半分。自分のテニスの上達は望めませんでしたが、初心者を指導する力を磨けました。また、その中に将来の働き者の女性スタッフも見つけました。

【歴史4 1979年】就職・・コートの神様との出会い2011/02/28 14:52

オイルショック後の就職難に有名住宅建材メーカーに就職口を射止めました。営業職だけの募集だったのに、入社式の辞令には私だけ開発部門の配属先が書かれていました。高校時代の集中勉強の習慣が、私の成績証明書に『優』をずらりと並べていたからかも知れません。理系の成績が優秀だった私は、技術職に大喜びました。日曜大工大好き少年、ラジコンバギー改造大好き少年の私の天性の腕の器用さは、色々なシーンで活かされそうでした。

約一年後、会社初の試みで、私は筑波大学人間工学部への半年間の研修生に選ばれました。開発部の将来のリーダー養成だとのことで。しかし私はそれを辞退することになります。入社して私は無口だった自分が一層暗くなっていくことへの自己嫌悪を感じ始めました。会社に着くと毎日のようにトイレに駆け込む日々、まぶたのピクピクが止まらない日々が続きました。

私は半年後、田んぼだった自宅前に壁打ち場を作って土日にテニスで気晴らしをしようと思いつきました。そして測ってみたら、あぜ道の袋小路だったその土地は、一部を市役所前通りに買収され、自宅を除いた部分にちょうどコート一面の広さが残っていたのです。私は、大げさですが、神様のお告げのように感じ、テニスコート作りを決めました。けれども、その時点では決して会社を辞める決意をしたわけではありませんでした。