【歴史】'06秋〜'07年3月の愛弟子達2012/12/05 07:03

【テニストピア歴史の更新です】

2006年11月、安鳩方(小5)がJPTA全国小学生トーナメントで準優勝しました。
後ろに映っている辻選手に逆転負けしてしまいました。
軽井沢です。

2006年11月、安鳩方のJPTA全小準優勝,美紀のサテライト優勝の披露です。
次世代ジュニアの園児が仲間入りしています。
こんな小さい子だからこそ、私の信念で片手バックで始めます。
『お宅ですか? 小さい子に片手バックを教えるスパルタ式の教室って!?』
なんて電話がかかって来たのはこの頃です。
将来を深く見据えて、二十年も三十年も指導力を蓄えて、マンツーマンで絶妙の調整を施す指導がスパルタなら、片手が向いているかも知れない芽を園児のうちから一律に摘んでしまう指導は幼児虐待だと、私は思います。

忙しいスケジュールの中をぬって井澤XmasOpen観戦です。
オンコート練習と、質の高い試合を眼から吸収することを天秤に掛けて、こういう解説付きミニツアーを組むことがあります。

2006年12月、大阪ジュニア冬季大会U11で安鳩方(小5)が夏から連覇しました。

2006年12月、大阪ジュニア冬季大会U11複で安鳩方,直子(小5)が優勝しました。

2007年1月、京都ジュニアチャンピオン大会U11で安鳩方(小5)が優勝しました。
直子(小5)は、安鳩方とSFを戦って三位でした。

2007年2月、安鳩方の関西サーキット和歌山大会優勝の写真です。
2006年10月からの関西ジュニアサーキットを、安鳩方(小5)はマスターズまで五大会全て優勝しました。
※第四戦は京都ジュニアチャンピオン大会のために辞退しました。

2007年2月、安鳩方は全国選抜ジュニア関西予選U12は関西常勝だったので、準優勝の結果には本人はかなり落ち込みました。
よって表彰式の写真がありません。
しかし、二年連続の出場権は獲得しました。


2007年3月、安鳩方は大阪ジュニア春季大会U12単をインフルエンザで40度の熱の中を2R戦ってリタイヤし、安鳩方.直子の複は決勝を辞退ました。

【歴史】'06~'07の愛弟子達-夏2012/12/04 22:07

【テニストピア歴史の更新です】

2006年8月、全日本ジュニアが終わり、大阪サマージュニアからそれぞれの目標が掲げられて一年が始まりました。

角矢安鳩方は単の全国優勝を目指して、まずは大阪サマージュニアU11単優勝です。
德田直子は全国デビューを目指して、まずは大阪サマージュニアU11単三位です。
安鳩方,直子の新ペアは、全日本ジュニア複優勝を目指して
まずは大阪サマージュニアU11複で優勝しました。
田畑美紀,岡崎奈々の新ペアは、全国を目指して
まずは大阪サマージュニアU13複三位です。
低学年の子達にとっては関西進出を目指して。

【歴史】'04~'06 全国選手の空白期間と全国第9号10号2012/12/02 00:09

【テニストピア歴史の更新です】

歴史の記述がずいぶん滞りました。
現実の激動の一年、過去に目を向ける余裕がなかったように思います。

2004年関西ジュニア決勝での理不尽な事件を受けて、全国へのはしごを外された私が、次に教え子を連れてくるまで全日本ジュニアの会場へ足を踏み入れない誓いを立てた時点で止まっていたはずです。

というわけで、この年の全日本ジュニアの本校ジュニアのダブルス優勝は観ていません。
そして私の指導力の矛先は、小1〜園児からこぞって全国を目指してスタートしていた7名のELITE生に一斉に向けられることとなりました。

当時私はワイフに何度もたしなめられました。
『またサテライトまで同行するの?! 今まで、関西サーキットすら一度も観たことがなかったのに!』と。
私はその都度『うるさい!この子らを全国選手に育てるまでは何だってする!』と切り捨てました。

空白期に入った半年後、既に小3の角矢安鳩方は2005年の1月、京都ジュニアサーキットチャンピオン大会U9で優勝するまでに頭角を現していました。
2005年2月、京都ジュニア実行委員会の大会で安鳩方(小3)が準優勝、德田直子(小3)が三位。
当時の当ジュニア達には、お手本とする先輩がいないデメリットと引き換えに、民間ローカル大会まで私が同行するメリットがもたらされました。
試合分析→個人レッスン→実戦練習→試合分析→の短い周期でのサイクルの効果は絶大でした。
この頃の経験から、現在の掲示板に『同行無くして上達無し』が掲げられています。
2005年8月大阪サマージュニアU11で小4の安鳩方は単で準優勝。
安鳩方と小5の岡崎奈々のダブルスは初優勝。
2005年12月、安鳩方は次ぐ大阪冬期ジュニアU11でも単で準優勝。
安鳩方,奈々のダブルスは夏から連覇。
2006年3月、安鳩方は大阪春季ジュニアU12単で念願の初優勝。
宿敵辻佳奈美選手に、ネットプレーのラッシュで勝ちました。
同大会、安鳩方,奈々のダブルスは夏から三連覇を達成。
また、金川美咲紀(小3)も単SFで安鳩方に敗れたものの堂々の三位。
ここに登場する子達はみな片手バックです。
これ以降の私のジュニア育成は、全て片手バックでのスタートとしました。
この春、残念なことに、将来を任せるつもりだったコーチが、数人のジュニアを引き抜いて独立しました。
小4にして安鳩方は、全国選抜ジュニアU12関西予選をノーシードから三位に入賞。
小5に上がった5月、全国選手第9号として全国選抜ジュニアに出場し、本校の全国選手の空白期間に二年で終止符を打ってくれました。
小5にして健闘のBEST8。
更に7月、安鳩方は全国小学生に出場。
小5にして健闘のBEST8。
8月の関西ジュニアU12では安鳩方はシングルスでNO.1シードに惜敗の三位。
安鳩方,奈々のダブルスは準優勝。 
続く全日本ジュニアU12に安鳩方のシングルス、安鳩方と岡崎奈々(全国選手第10号)ダブルス出場をもって、靭テニスセンターへ足を踏み入れない誓いは解かれました。
この全日本ジュニアは、両種目共ににBest8でした。

【歴史】不田涼子引退と全国選手第5号6号2012/04/16 23:03

ブログは、自画自賛,我田引水がスタンダードだと、私は思っています。
故にそれを笑って許して頂ける方のみ、ココを閲覧して下さい。

その前提で、滞っていたテニストピアの歴史の1ページとからめて書きます。

この2012年3月末、不田涼子さんが引退しました。
私はその昔、不田涼子さんを照準に合わせたジュニアがいました。
先の記事で書いた、スクール日本一第一号の森美紀の妹、成美です。

彼女に、姉以上の素質を見いだしていた私が、ライバルだと勝手に位置づけていた不田涼子さんは、当時関西では鉄壁のNo.1でした。
いつかは追いつくぞと虎視眈々と狙っていた対象でしたが、本人と私の志半ば、家庭の事情もあり
『自分はテニスに情熱はそれほど無い』『やめてもいい』と、本井満氏に見出され、ナショナルにも選ばれ、本格的にプロを目指す姉のために、成美は身を引く決心をしました。

その森成美は本校全国選手第5号です。
しかし、その年の最初にして最後の全日本ジュニアに向けての練習で、あれほどパワフルに打っていたサーブはそおっと。
私は何度もどなり声を上げました。

ある日私は、コート出入り口のらせん階段の根元に彼女を呼び、静かに尋ねました。
私……『本当はテニス続けたいのと違うんか?』『もう最後やと思うから身が入らないんと違うんか?』
彼女…ほどなく涙。そして『そうやねん! ホントはわたし、テニス続けたいよ・・・』
二人…しばらく、涙。涙。
私……『最後やし、頑張ろうっ』が精一杯でした。

その彼女、第一線を退いたものの、中学校のテニス部に居場所を残しました。
2001年、中3の彼女、同じ取石中学校2年の我が娘名恵と組んだ全中大阪和歌山予選のダブルスに準優勝し、全中出場を果たしたのが最後でした。

名恵はこの大会で本校全国選手第6号となりました。

片や、2002年、不田涼子さんは、颯爽とワールドスーパージュニアで優勝しました。
その優勝スピーチ『私は高校には行きません。』『私にとってテニスが学校です。』は
観戦していた私と7歳だった安鳩方の、大きな道しるべとなりました。

実は、結局は怪我でその意味を見出せなかったものの、我が娘の名恵にとっても、通信に進む道しるべとなりました。

不田涼子さんのブログの引退表明の記事の一節
『3歳でテニスを始め、世界のトップになる事だけが、
成功だと思って頑張り続けてきました。』
に言い表されている生き方と
19歳のときの膝の怪我からの今までの復活劇は
近くに居た私達の人生に、大きな勇気と元気を与えてくれました。

ありがとうございました。

【歴史】全国選手不在期間2012/02/14 21:06

2004年、教え子が全日本Jr.ダブルスで優勝するにも関わらず、大会全期間を通じて、私の姿はそこにありません。
直前の関西Jr.決勝での、親のご乱心事件のせいです。
この全日本Jr.を最後に、本校は全国選手不在期間に突入しました。
全くの濡れ衣(後に親も認めて謝罪される)と言えども、公衆の面前で辱められ、ショックで『私は二度と靱には来たくない』と言うワイフの心情に配慮して、私も誓いを立てました。
次に全日本Jr.に教え子を連れてくるまで、全日本Jr.の会場には足を踏み入れないと。

折しも、頼もしい次世代エリートが始動していました。
それまでの黄金時代、関西サーキットすら一度も同行したことがなかった私が、ほぼ全てのサテライトと草Jr.トーナメントまで同行するほど、私は全力を傾注しました。
ほどなく頭角を表したのが、岡崎奈々と角矢安鳩方と徳田直子の3人です。

私はこの時期から園児から全てバックハンド片手で育てることになります。

理由1 両手スタートは片手の可能性を摘む行為であり、両手への転向は後からでも可能という信念。
理由2 質の高い片手バックボレーを育むため。
理由3 本格的スライスバックを育むため。
理由4 レシーブ,ストローク,ボレーのリーチの長さを育むため。
理由5 全国選手第1,2号の橋本吉弘,谷野博紀の攻撃型バックを女子で再現してみたいという野望。
理由6 幻に終った片手バック第一号全国女子を実現したい野望。

理由7の少女は、本校の女子片手バック第一号です。
お手本が無いにも関わらず、使い分けを教えていないのにも関わらず、スライスとスピンとフラットを絶妙に使い分ける素質の持ち主でした。
しかしその子は当時ドロー数が少ない難関の関西Jr.U12の出場権を小4で射止めながら、家庭の事情で出場することなく姿を消しました。
私はもしやと、関西Jr.初日、靫にその姿を探しに行ったほどの、私にとって希望の星でした。
その夢を後陣に託すことになったのです。