【歴史5 1979年】脱サラ・・背中を押される2011/03/01 11:18

高校時代、富岡先生は『この先生さえいなかったら、どんなに楽しくテニスができるだろう・・・』と嫌い恐れた先生でした。それは卒業後、日が経つにつれて『いい先生やったなぁ・・・』『ほんまに、いい先生やったなぁ・・・』に変化し、膨らんでいきました。その思いは、庭にコート一面の大きさがあると知ったとたん『あの先生のように、ここで子供達を教えたい!』に変わりました。

父は、デサントの重役だった父の高校時代の同窓生の藤代さんに引き合わせてくれました。土日のスクール開校の相談のためです。その方を含め、更にご紹介頂いた方々の助言は『どうせやるならテニスショップ&テニススクール!』でした。私は、自分の一点集中のテニスへの思いと、業界リーダーのグローバルな見解の差に驚きました。と同時に私は、『中途半端な決意ではいけない。テニスか会社か、どちらかを選びなさい。』と言われた思いがしました。それは家族全員の道か独りの道かの選択でした。

私は心の中でテニスを選んだ上で、富岡先生に相談しました。先生は、目標と失敗、両方の私の決意を確かめた上で、背中を押して下さいました。

【歴史6 1980年5月】ショップ開業・・点と点の結合2011/03/03 10:36

1980年5月3日、テニストピアは開店を果たしました。先祖代々受け継いだ田畑が借入資金を生んでくれました。父の同窓生のデサントの藤代さんには仕入れ先から店のロゴ,包装紙,紙袋まで細かく手配して頂きました。親戚の建設業の宮崎組には店舗を突貫かつ安く建てて頂きました。従兄の田野泰偉さんにはダンロップを紹介して頂きました。

専門店の命であるガット張りにおいて、私の天性の手先の器用さは、短期間の修行期間にもかかわらず既に非凡さを発揮していました。そこには大学でしぼられた材料力学と木材工学がガット張りに大いに活かされました。またその木材工学は、短期間だったものの会社での研究開発実務と相まって、ウッドラケット全盛時代にあって、ふつうのテニスショップを超えたラケット掌握に活かされました。

また私の周りは恩師と先輩のテニス部で固められていました。清風高校の富岡先生には、清風南海で練習する黄金期の生徒のガット張りを多数回して下さいました。清風南海高校の平岡副校長と長谷川先生には、卒業生を大切にする校風を越えて特に取り立てて頂きました。高石中学校の安井先生には、その後、高南、取石と移られて退官されるまで、ずっと格別のご愛顧を賜ることとなりました。高石高校の柳沼先生は高石中学校テニス部の一つ先輩であり、ずいぶん可愛がって頂きました。羽衣学園テニス部も、心強いスタッフとして入った従妹の奥野真弓がソフトボールで活躍した母校であり、歴代の顧問の先生にご愛顧を賜りました。

母は好きな踊りをやめて店に入ってくれました。大学時代に見つけた将来の女店員も開店セールに駆けつけてくれました。

こうして書いていると、過去の点と点が結びついたことに感動するとともに、それぞれの点におられた、感謝の一言では言い尽くせない方々のお顔が次々に浮かんでまいります。

【歴史7 1980年】コート自作2011/03/04 09:38

資金は無いけれど、お客さんも少なく、時間はたっぷりあった開業当初、私は毎日テニスコートの自作に励みました。高校時代、コートの全面補修をさせられたことが活かされました。作業は開業前から数ヶ月かけて進めていました。

フェンスとブロックを建てました(写真左上)。

ショベルで地面に水勾配を付け、排水パイプを埋め、砂利を敷きました(写真右上)。

さすがに砂利の転圧は人力ではできませんが、幸運にも近所の阪南機工でロードローラー を6,000円でレンタルできました。これは楽なだけでなく、ワクワクして乗りました(写真左下)。

けれども土は高石市が規制のため早朝4時に11トン車で運ばれました。歩道に大きくはみ出た山を一輪車で運び、登校時間に通学路を間に合わせるのは大変でした(写真右下)。

自作と言っても決して独りでありません。父との二人三脚だけでなく、従兄の田野さんや高中テニス部同級生で親友の真鍋君と辻林君に手伝って頂いたことで随分はかどりました(写真右上)。

通常300万円かかるコートを70万円で仕上げることができました。

【歴史8 1980年】スクール開校・・看板に富岡先生2011/03/08 00:05

ショップ開業から二ヶ月遅れでスクールをひっそりと開校しました。開業前、退社と開業の報告を富岡先生に報告に行った私は、突然、日曜日にテニス部の練習と平行して催しておられた成人サークルでコーチングをしてみろと言われました。私は最初の一言が出ずに立ちすくみました。その後、私は思いがけない言葉を授かりました・・・『教室にわしの名前を使え!』 学校に対する支障を心配した私に・・・『かまわん!もし何かあってもワシが責任持つ!』

当時はテニススショップは府県に数件、スクールも黎明期。こんな様子ではやっていけないと心配して頂いたのでしょうか。あるいはテニスに掛けようとしている教え子への純粋な応援だったのでしようか。

その時、私はもう一つ言葉を授かりました・・・『やるんやったら日本一になれ! 売り上げでもガット張りでもジュニア育成でもどんな分野でもええ!』 その二つのシーンは、まぶたと耳に今でも鮮明に甦ります。間違いなくそれは私の日本一への道の出発点でした。

【スクール】角矢安鳩方ITF単初勝利2011/03/08 16:59

角矢安鳩方(15)が先週水曜から43rd Brunei ITF Junior Circuit 2011に出るためにブルネイに行っています。
補欠から予選に繰り上がり、更に幸運にも抽選で予選から本戦に繰り上がっていたため、今日が初陣でした。
CHANG, Yun-Chieh (TPE)に対して63,63でした。
良かった! 良かった!
関西No.1でプロを目指して頑張っていたのに、頑張り過ぎて疲労骨折。立ち直った矢先に小学校の階段から三人組の男の子に突き落とされて剥離骨折。それがたたって膝の故障。念のため行った内視鏡クリーニングが思わぬ回復遅れ・・・と迷い込んだ長いトンネルを抜けようとしています。
明日も頑張れ!!