【歴史】黄金ラッシュ 全国選手第4,7,8号の入賞2012/01/01 11:10

1999年の末、念願のインドア化を果たし、元門下生からアシスタントコーチを社員として迎え、飛躍体制が更に整いました。
そして次々と全国入賞者を輩出して行きます。
1999年 8月 森美紀が竹本(江坂)と組んで全日本Jr.U16複優勝
2000年 5月 小南ちあき(全国選手第4号)が全国選抜ジュニアU12優勝
2000年 7月 小南ちあきが全国小学生第三位
2001年 8月 森美紀が竹本みのり(江坂)と組んで全日本Jr.U18複準優勝
2002年 5月 坂東未来(全国選手第7号)藤原利菜(全国選手第8号)とが全国選抜ジュニアU12に出場し藤原が6位入賞
2003年10月 板東未来がRSK杯4位
2004年 8月 板東が奈良くるみ(江坂)と組んで全日本Jr.U14複優勝

【歴史】逸材が消える理由ー高校テニス2012/01/01 11:20

将来を見据えて指導され、高く評価をされたジュニアが、選手として成功することなく消えるには、様々な理由があります。
その一つは、今後のジュニアの参考になるはずなので、実名を伏せて書くことにします。

あるジュニアは日本協会の強化本部トップの方に、鈴木貴男、沢松奈生子の次に来る子とまで評価して頂き、年間60万円という破格の用具提供までお世話頂きました。
その方から力説して頂いた言葉があります。
『あの子は私立名門にだけは絶対入れたらだめですよ。つぶされますよ。』
『地元の名も無い公立高校に進めて増田さんがずっと指導すべきですよ。』

私は、会うたびに口をすっぱくして言って下さったその貴重な助言より、私立の名門の先生の美辞麗句に負けてしまったのです。
『名前だけ貸して下さい。名前だけで良いんです。』
『テニス指導は全て増田さんにお任せします。』
『テニストピアの名前で大会に出て学校を休んでも全て公欠にしますから』
私の二つの条件をお願いしました。
「レッスンが夜遅くなるから朝練には参加させられない」
「トレーニングはテニストピアでするから学校のトレーニングは重複するので外してほしい」
『いいです! いいです!』と快諾でした。

入部初日に一つ目の条件がウラ切られました。
「朝練は参加してもらわなければ他の部員に示しが付かないから困る」
 ・・・彼女は約束が違うと落胆して翌日やってました。
 ・・・しかし私は先生に説得され、夜遅いレッスンを諦めました。
入部数週間で二つ目の条件がウラ切られました。
「他の部員がトレーニングしている時に彼女だけ休ませるようでできない」
 ・・・しばしば筋肉を痛めて練習がストップしました。
入部数ヶ月で約束がウラ切られました。
「テニストピアの名前で出るなら公欠は出せない」
 ・・・大阪,関西,日本協会以外の大会には出られなくなりました。
入部一年で約束がウラ切られました。
「大胆に踏み込むレシーブを否定されカットレシーブを教えられる」
「週1~2日しかレッスンに来させない週が増える」
 ・・・ダイナミックなテニスは影をひそめていきました。

極めつけは引退した高校三年生。
私は知人の中三のジュニアの母親に告白されました。
『××高校の先生に勧誘されました。うちに練習に来たら△△と打てますよ。引退したから△△に勝つことすらできますよ。』
『うちの子△△さんに勝っても別に嬉しくないですわ。あそこには行かせるつもりありません。』
 ・・・△△とは当の愛弟子です。

私は、手塩にかけて育て愛弟子をウソで固めて勧誘し、使い捨て、ぼろ切れのように扱う先生にはらわたが煮えくりかえりました。

しかしながら、今は私はその先生を恨んではいません。
公立高校に入学させていたら、入部は大歓迎されただけで済みました。
私立名門は推薦で入学させてもらった以上、三年間人質となります。
先生を信じた私が悪いのです。
先生に抗議して守ってやれなかった私が悪いのです。
彼女の人生を狂わせたのは結局私なのです。