【歴史】逸材が消える理由ー巣立ちの間違い2012/01/31 11:37

このブログの読者の父兄から笑って辛口の質問が寄せられました。
『将来を見据えた指導をされ高い評価を受けたジュニアが、どうして成功していないのですか?』
『コーチに指導力が無かったからじゃないですか?』と。
私は偉そうに答えます。
『巣立ちの時期も来ていないのに、巣立たせたからです。』
『翼が傷付いたわけではないから、再び飛べたはずです。』
『その後、名前が消えたのは、移った先の指導に問題があっただけです。』
『良い指導者なんて日本に数少なくて、ご近所には、そうそう居るものではないのですよ。』と。

巣立ちを間違える一例として”【歴史】消えた逸材1”で書きました。
もうひとつは、ココに書く”親の豹変”です。

その変身ぶりの体験談は聞かされてはいたものの、父兄とジュニアと二人三脚で山を登っている道すがら、本校にはそれはあり得ないことと思っていました。
しかし実際に私も遭遇してみて、山を極めた瞬間の豹変には驚かされました。
あまりにすさまじいので、ココには具体的に書けません。

一つ山を制すると、ジュニアとコーチの心は一緒に下山して、次の山を目指して意気投合します。
それに反して、親の心はふもとから頂上をあこがれて見上げていた頃を忘れて、もともとそこにいたかのように、頂上に居座り続けます。
そして下界を見下ろして、コーチも豆粒に見えてしまうのでしょう。

我が子の能力を信じ切る親の心は、子育てにおいては、外敵を蹴散らす大きな武器となります。
しかし使い方を間違うと、それは可愛い我が子まで傷つけてしまう両刃の剣となるのです。

【歴史】逸材が消える理由ー高校テニス2012/01/01 11:20

将来を見据えて指導され、高く評価をされたジュニアが、選手として成功することなく消えるには、様々な理由があります。
その一つは、今後のジュニアの参考になるはずなので、実名を伏せて書くことにします。

あるジュニアは日本協会の強化本部トップの方に、鈴木貴男、沢松奈生子の次に来る子とまで評価して頂き、年間60万円という破格の用具提供までお世話頂きました。
その方から力説して頂いた言葉があります。
『あの子は私立名門にだけは絶対入れたらだめですよ。つぶされますよ。』
『地元の名も無い公立高校に進めて増田さんがずっと指導すべきですよ。』

私は、会うたびに口をすっぱくして言って下さったその貴重な助言より、私立の名門の先生の美辞麗句に負けてしまったのです。
『名前だけ貸して下さい。名前だけで良いんです。』
『テニス指導は全て増田さんにお任せします。』
『テニストピアの名前で大会に出て学校を休んでも全て公欠にしますから』
私の二つの条件をお願いしました。
「レッスンが夜遅くなるから朝練には参加させられない」
「トレーニングはテニストピアでするから学校のトレーニングは重複するので外してほしい」
『いいです! いいです!』と快諾でした。

入部初日に一つ目の条件がウラ切られました。
「朝練は参加してもらわなければ他の部員に示しが付かないから困る」
 ・・・彼女は約束が違うと落胆して翌日やってました。
 ・・・しかし私は先生に説得され、夜遅いレッスンを諦めました。
入部数週間で二つ目の条件がウラ切られました。
「他の部員がトレーニングしている時に彼女だけ休ませるようでできない」
 ・・・しばしば筋肉を痛めて練習がストップしました。
入部数ヶ月で約束がウラ切られました。
「テニストピアの名前で出るなら公欠は出せない」
 ・・・大阪,関西,日本協会以外の大会には出られなくなりました。
入部一年で約束がウラ切られました。
「大胆に踏み込むレシーブを否定されカットレシーブを教えられる」
「週1~2日しかレッスンに来させない週が増える」
 ・・・ダイナミックなテニスは影をひそめていきました。

極めつけは引退した高校三年生。
私は知人の中三のジュニアの母親に告白されました。
『××高校の先生に勧誘されました。うちに練習に来たら△△と打てますよ。引退したから△△に勝つことすらできますよ。』
『うちの子△△さんに勝っても別に嬉しくないですわ。あそこには行かせるつもりありません。』
 ・・・△△とは当の愛弟子です。

私は、手塩にかけて育て愛弟子をウソで固めて勧誘し、使い捨て、ぼろ切れのように扱う先生にはらわたが煮えくりかえりました。

しかしながら、今は私はその先生を恨んではいません。
公立高校に入学させていたら、入部は大歓迎されただけで済みました。
私立名門は推薦で入学させてもらった以上、三年間人質となります。
先生を信じた私が悪いのです。
先生に抗議して守ってやれなかった私が悪いのです。
彼女の人生を狂わせたのは結局私なのです。

【歴史】黄金ラッシュ 全国選手第4,7,8号の入賞2012/01/01 11:10

1999年の末、念願のインドア化を果たし、元門下生からアシスタントコーチを社員として迎え、飛躍体制が更に整いました。
そして次々と全国入賞者を輩出して行きます。
1999年 8月 森美紀が竹本(江坂)と組んで全日本Jr.U16複優勝
2000年 5月 小南ちあき(全国選手第4号)が全国選抜ジュニアU12優勝
2000年 7月 小南ちあきが全国小学生第三位
2001年 8月 森美紀が竹本みのり(江坂)と組んで全日本Jr.U18複準優勝
2002年 5月 坂東未来(全国選手第7号)藤原利菜(全国選手第8号)とが全国選抜ジュニアU12に出場し藤原が6位入賞
2003年10月 板東未来がRSK杯4位
2004年 8月 板東が奈良くるみ(江坂)と組んで全日本Jr.U14複優勝

【歴史】スクール日本一第一号2011/12/10 15:35

1999年8月、森美紀は全日本ジュニアにダブルスのみに切符を手にしました。
私は妻と長女の名恵と門下生の小南ちあきを率いて一回戦か二回戦だけでも晴れ舞台を見届けようと有明に向かいました。
パートナーの竹本みのりさん(江坂テニスセンター)は、ボレーに自信が無くてサービスラインに留まるものの、鉄壁のストロークを誇りました。
美紀は、ストロークは荒いがサーブとネットプレイの破壊力抜群です。
そんなチームが大阪、関西で勝てても、全国でどこまで通用するか全く不明でした。

二泊分だけの荷物を小型のキャンピングカーに詰め込んだ旅は、嬉しい誤算と雨で、四日に延びました。
ベスト8までなんとか進出したものの、踏み込むことが武器の美紀のレシーブはミスして踏み込めず、踏み込めないことでミスが出る悪循環に陥りました。
QFに向けて会場の貸コートを確保して調整しましたが、カゴボールがないので効果も上がりません。
そこでそれ以降の試合を、私は美紀にレシーブダッシュを命じました。
しかし、それが見事に的中。
観戦に来られた植田実氏や福井烈氏など強化コーチが、美紀のレシーブダッシュにのけぞって感心されているシーンは、今でも脳裏に鮮明です。
その後SF,Fと快進撃で日本一はもたらされました。
夢か現実か区別できず、呆然と表彰式を待っていた私に歩み寄って来られたのは植田実氏です。
『よくここまで育て上げられましたね』と嬉しいお言葉に、私は『ダブルスしか出られてないんですよ』と憂いの言葉でお返ししました。
すると『シングルスで勝てていないのにダブルスで勝てているのは多彩なテクニックを身につけている証拠ですよ』と。
それまでの苦労の全てが吹き飛ぶ、至福のひとときでした。

【歴史】スクール日本一へ道 全国第3号2011/12/05 08:13

次の素質は既に定期クラスの中にいました。
家がすぐウラだからと来ていた森美紀です。
当時は良い素質との出会いを求めて、それまでの個人指導ONLYではなく、集団指導と個人指導の融合時代に入っていました。
『テニストピアってテニスとピアノ教えてくれるんか!』とからかわれた時代は終わり、テニストピアは大阪で優勝を繰り出す名門チームになっていました。
趣味として週一で入学して、週二、週三と好きになり、週五とのめり込んで頭角を現した美紀の全国デビューは全国小学生。
サービスエースの取れるフラットサーブ、大きく跳ねるスピンサーブ、高い打点からの強打でどんどん前に出るテニス、鋭く振り抜くボレー、一発で決まるスマッシュ・・・と、会場で飛び抜けて一番上手いと思うのに、ベスト16で終わりました。
落胆して、とぼとぼ歩いていた私に『鳥肌が立ちました』と励ましの声が掛けられました。
その主はテニスジャーナルの記事を書いているという松島徹氏です。
美紀とお母さんへも一言お願いしたところ、記事にも励ましを込めて書くと約束をして下さいました。
しかし発刊された記事を読んで唖然!! 
美紀のサーブ,ストローク,ボレーの大きな写真が三枚。
そして
『・・・現状の日本では将来を見据えたプレイをしていては試合に勝つことはできない。ダイナミックなサーブ、鋭いスウイングスピードのストローク、アプローチからのネットプレイなど、これらはとんでもないことと教え込まれる。・・・ここで紹介した森美紀ちゃんは私が選んだ本当の小学生チャンピオンである。・・・(松島徹氏記事)』
『・・・鳥肌が立つ思いがしたと松島コーチが絶賛した森美紀 松島コーチは3回戦で4ゲームしか取れずに消えた森美紀を本当のチャンピオンとして挙げた(写真解説)』
記事と解説はテニスジャーナル1996年10月号 全国小学生選手権大会"君の夢はどこにあるのか" より引用。(関心のある方はスキージャーナルさんに依頼したら記事を実費で送ってくれます。)